言葉のミスリード?〜本質的な社会課題とは?〜

今年の4月で5期目を迎えるステップアップ塾では、設立以来子ども達の入塾時に保護者から課税証明書と全員記載の住民票の提出を義務づけています。

これは教育機会の不均衡(教育格差)には経済的要因が大きく作用しているため、支援の対象を濁らせないことが大切だと考えているからです。

そのため本プロジェクトでも同様に、支援対象を明確にするために利用法を含め、下記のように一枚の資料にまとめてみました。

◆ 教育格差・子どもの貧困と言う言葉への違和感

※写真の髪は、言うまでもなく合成です。

しかしその上で、ステップアップ塾を設立した背景も含め、私の思想的スタンスを改めて記載しておきたいと思います。

意外に思われるかもしれませんが、私は「教育格差」や「子どもの貧困」と言う言葉に対して、行政が広めようとしている言葉としては、かなり適切ではないと感じています。

敢えて激しい書き方をすれば、有志を募り無料塾を運営する私達民間のNPOにとって、潜在的な支援者に誤解を与える言葉だとすら、感じています。

それはなぜか。

教育格差の「格差」と言う言葉について言えば、人間が社会で暮らす以上、さまざまな格差や差異が生じるのは自然なことです。

所得しかり、体力しかり、学力しかり、家庭環境しかり。

しかし、例えば差異と言う言葉の類語でありながらも否定的な意味で使われがちな格差と言う言葉の持つニュアンスを正しく認識する場合、はっきり書けば共産主義者的な視点を背景に感じさせる単語であることは間違いありません。

教育機会の不均衡にさらされた子ども達の学力低下の現実に目を向けさせる以前に、資本主義社会に暮らす有識者や成功者に違和感と反発心を感じさせている現実があるのです。

私がこう言い切れる理由ですが、今でこそ当塾の有力な支援者になってくれたとある大きな企業経営者と、この話題について議論をしたことがあるからです。^ ^;

敢えて再度書きますが、問題は格差にあるわけではありません。
子ども達の教育機会に不均衡が生じてしまう、日本の教育を巡る複合的な社会環境こそが、目を向けるべき問題点なのです。

複合的な問題を行政という立場で取り扱おうとすればするほど、矛盾が生じるのは明白なため、大きなお世話かもしれませんが我々NPOが間に入ることで問題解決を図ろうとしているに過ぎません。

また、いつの間にか教育格差と言う言葉よりも大枠の中で語られるようになった「子どもの貧困」という言葉についても書きますが、備忘録をかねて書けば、私達がステップアップ塾を設立した2014年から2年ほどは、まったくと言っていいほど使われていない言葉でもありました。

これは「教育格差」と呼ばれる社会問題の背景が明確になるにつれわかってきたことではありますが、それぞれの家庭の経済状況「だけ」に原因を限定したい方達の思惑でもあるような気がしてなりません。

当塾のサイトでも2016年度より公開している通り、教育格差の背景には所得格差を起因とする場合の他にも、学校環境を起因とする場合と家庭不和を起因とする場合が存在しているのです。

にも関わらず、つきつめれば「保護者の貧困」であるはずの「子どもの貧困」という言葉と混同させながら「教育格差」と言う言葉でこの問題をまとめるのはいささか乱暴で、子ども達や支援者に不誠実な気がしてならないのです。

◆ 本質的な社会課題について

と言うわけで、政治家ならいざ知らず民間の有志にすぎない私達が取り組むべき社会課題はあくまでも、教育機会の不均衡にさらされた子ども達の学力向上に寄与することだと考え、今日にいたります。

その為には「適度な競争」を促し、叱ることのできる学習環境をこそ作らなくてはなりません。

これは大多数の一般市民ならご理解いただけることだと思いますが、ただのパフォーマンスが目的ならば、生徒が嫌がる勉強を強いる必要はないのです。

広告代理店や大規模なNGOが政府とともに旗振り役としてCMを打ち、莫大な予算を投じていながらも、国民運動になりきれない「子どもの貧困」。

いじめや学級崩壊など、教育現場で機能不全におちいった現実を改善しないままに行政が旗を振れば振るほど、有識者は白ける構図になっているような気がしてなりません。

保護者を含め、サイレントマジョリティは冷静にみていますから。

これはあくまでも、無料塾と向き合う一人の運営者としての考察ではありますが、ね。

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